「五重の祝福」が私たちの信仰のための理論(Theory)と教理(Doctrine)であれば、その理論と教理を実践する実際(Practice)と適用(Application)があるべきです。実際に適用がない理念は机上の空論に過ぎません。このような福音の適用が「三拍子の祝福」です。「三拍子の祝福」は救いのある一面だけを強調するのではなく、私たちの霊、たましい、肉体におよぶ、人生のすべての領域に適用される全人的救いの図式的表現です。
善悪の知識の木から取って食べた時、アダムとエバは神様の御言葉通り霊的に死んでしまいました(創2:16、17)。霊が死んだというのは、神様から分離されたという意味です。神本主義(神様中心主義)から、人本主義(人間中心主義)に転落した結果、人間は神様があらかじめ備えてくださったエデンの園で信仰と従順で生きる代わりに、神様不在の世界の中で、人間の限られた手段と方法と知恵で生きるほかなくなったのです。アダムとエバが堕落したことによって地は呪われ、いばらとあざみを生じるようになりました(創3:17、18)。この時に始まって今日に至るまで人間の人生に、のろいのいばらとあざみが生えていない所はありません。人類は科学文明を発展させ努力していますが、家庭と社会、世界中に憎しみのいばら、不安と恐怖のいばら、挫折と絶望のいばらが生え、更には死のいばらが生え、人間はその苦痛によって身悶えしています。結局はアダムの罪によって、人間は死んで土に帰るしかない有限な存在になってしまいました(創3:19)。死と死に至らせる病が人間に近づくようになってしまいました。
罪のないイエス様が十字架の刑罰を受けたのは、まさに私たちの罪と咎を代わりにあがなうためでした。十字架の上でイエス様が「完了した」と叫んだ時、私たちは私たちのすべての過去、現在、未来の罪を赦され、まるで一回も罪を犯したことのない人のように正々堂々と神様の前に立つことができる法的資格を得るようになりました。これがイエス・、キリストを救い主を信じたことによって得られた霊のよみがえり、すなわち「霊が恵まれる祝福」です。
この祝福を受けると、次に臨む祝福があります。それは、祝福の源である神様の子が私たちの代わりに、呪いを背負い、血を流すことによって、のろいの力がなくなり、憎しみ、不安、焦燥、恐怖と絶望、挫折と死、罪責、定罪などすべてのとげが除かれたことによる祝福です。そしてその結果、心の中に平安の川が流れ、人生の中に祝福の川が流れるようになる祝福です。これが「すべてに恵まれる祝福」です。
この祝福を受けると、次に臨む祝福があります。それは、アダムの堕落によってもたらされた肉体的病と死も、同じくイエス様のあがないによって、完全に回復されるという祝福です。この祝福を受けてからは、イエス・キリストのあがないに立脚して、私たちを破壊する病に対する癒しと健康の回復を、大胆に求めることができるようになるのです。また、キリストの中にいる人は、その肉体が復活する命の種を得るようになりました(Ⅰコリント15:42~45)。これが「健康になる祝福」です。
聖徒がイエス・キリストを救い主として受け入れ、霊が生き返れば、その生まれ変わった霊が主人になり、たましいをしもべとして使い、肉体を家にして生きるようになります。霊が生き返る人は良心が生き返り、御言葉を愛し、来世の希望を持ち、祈りによって神様と交わり、神様に感謝と賛美をささげ、いつも神様の臨在を感じるようになります。また、人生の方向と価値が変わり、神様が人生の源泉になり、生活に奇跡が現れ、創造的な人生を送るようになります。
イエス様が罪によって生じた断絶の壁を崩し、聖霊が私たちのうちにおられるようになると、私たちの霊が神様の御言葉中心に生きるべきだと主張します。これに対して、たましいと肉が猛烈に反抗します。これまでたましいが自己の最高意志決定権を持っていたので、よみがえった霊が自分を治めるのを受け入れないのです。たましいは過去から重ねて来た人本主義的経験を盾にとって、肉体の五官を通して入って来る肉的世界に、私たちを占領し、進ませようとします。しかし、いったん私たちの霊がよみがえってからは、神様がたましいのわがままを放っておかないで、試練を通してたましいを黙らせるのと同時に、御言葉を通してたましいを訓練します。
肉は感覚を通して意識できる世界を持っています。肉がなければ私たちはこの世界に存在できません。肉を代表するのは欲であり、欲が行き過ぎて貪欲になる時、罪が入り、罪によってサタンが入るのです。肉はたましいのように黙らせることや訓練することができません。肉には理解力がなく、衝動によって行動するので、納得せず、修養と訓練によっても変えることができません。
私たちが肉を制御できる方法は、ただ十字架につけ殺す方法しかありません。聖書にはこれについて何回も言及しています。
「わたしたちは、この事を知っている。わたしたちの内の古き人はキリストと共に十字架につけられた。それは、この罪のからだが滅び、わたしたちがもはや、罪の奴隷となることがないためである。」(ローマ6:6)。「キリスト・イエス様に属する者は、自分の肉を、その情と欲と共に十字架につけてしまったのである。」(ガラテヤ5:24)。
聖書は私たちが肉体の情欲を十字架につける方法を次のように、三つ提示しています。
1.バプテスマ(浸礼・洗礼) バプテスマには、罪と死の奴隷になって生きてきた過去の古い人が、キリストとともに十字架につけられ、死んで、よみがえった新しい人としてキリストとともに生きるように生まれ変わるという意味を、水に潜って再び出てくるという象徴的行為で表す儀式でもあります(コロ2:12)。
2.聖霊のバプテスマ 私たちは聖霊のバプテスマを通して聖霊に満たされ、肉体を十字架につけることができます。炎のような聖霊が私たちのすべての罪と罪の源を一掃してくれます。
3.断食と祈り 断食と祈りを通して私たちは肉体の情欲を通して働くサタンの力に打ち勝ち、勝利できます。
私たちは物質的な富を罪悪として考え、嫌っている否定的な考えを変えなければいけません。そして、私たちの考えの中に潜在している貧乏意識、のろい意識、絶望意識などを追い出さなければいけません。なぜなら、神様は私たちの考えに合わせて働かれるため、私たちの考えが貧乏とのろいに満たされていると神様が私たちに富と祝福をお与えにならないからです。
考えを変えたなら、これからは聖書が教えている祝福の法則を生活の中で実践しなければいけません。
a)十分の一献金契約の法則
十分の一献金は物質に対する神様の主権を認め、従う行為として、神様の豊かな物質的祝福の基になります。神様ご自身が私たちに、十分の一の献金を捧げたらわたしがあなたがたを祝福するかどうか試してみよとおっしゃいました(マラキ3:10~12)。
b)蒔いて刈り取る法則
蒔いた通りに刈り取るのが自然の法則であり、宇宙的な法則です(ガラテヤ6:7、8)。
この自然法則は霊的な面でもそのまま適用されます。神様は私たちの信仰によって蒔くものを基礎として、神様の働きを表しています。
c)やまびこの法則
私たちが大きい声で叫ぶなら向こう側から大きくやまびこが聞こえてきます。これと同様に、私たちが聖霊の導きによって、主に大きく栄光をささげるならば、その大きさに応じて必ず祝福を先立たせて戻ってくるのです(ルカ6:38)。
神様はご自分を善き神様として見上げ、祝福してくれるのを信じて期待する者に、祝福を与えて下さいます。私たちが信じる神様がいくら偉大で全知全能な方であっても、私たちが期待しないと、神様の祝福が私たちに臨まないのです。聖書は「あなたの口を広くあけよ、わたしはそれを満たそう」(詩81:10) と伝えています。
人生の目標を持つことによって私たちの生涯が整えられ、豊かな実を結ぶようになります。目標達成を目指す生活は、私たちの信仰生活をさらに力ある喜び溢れたものにします。
目標を立てたならば、熱い願いと決意をもって走らなければいけません。神様は心に熱い願いがない人には働きません。燃える願いはあきらめない祈りを通して神様の御前にのぼり、その結果、神様の信仰を得て奇跡的に目標を達成することができるのです。
目標が設定され、その目標に対する熱い願いが起きてきたならば、次は目標が達成されている様子を具体的に考え、絶えず想像しなければいけません。
a)見つめる法則
確固たる成功イメージを描いて常に見つめ、ゆっくりと自分の方に引き寄せるようにより具体的に、現実味を増すように見つめるようにします。人間は想像力を通して、成功することもでき、失敗もするのです。聖書には 「油断することなく、あなたの心を守れ、命の泉は、これから流れ出るからである」(箴4:23)と書かれています。
b)群れの法則
「群れの法則」は、すずめはすずめ同士、鴨は鴨同士で群れることから派生した法則です。心の中に熱い願いを持っていると同じような願いを持っている人同士が集まるようになります。成功のイメージを持つ人々には成功する人々が集まってきて、自分も成功し始めるのです。
口の告白は私たちの人格と運命を支配する要素のひとつです。私たちが神様の力を認めて告白すれば、神様の力が私たちの人生を成功へと導いていきます。私たちが口でイエス様の救いを認めて告白すれば、救いが近づいて来ます。癒しの力を認めて告白すれば癒しの力が、祝福を認めて告白すれば祝福が近づいて来ます。ですから、私たちは私たちの成功(目標達成)を口で絶えず告白して、受け入れなくてはなりません。
私たちには、神様を信じて神様の栄光のために生きようとしているにも関わらず、苦しみに遭う時もあり、思いもよらないことが起きる時もあります。しかし、私たちはロ-マ人への手紙8章28節の御言葉を信じています。
「神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。
過去を振り返ると、私たちが神様を愛し、神様のご計画に従って生きようと努める時には、すべてのことが益とされてきたことが数え切れないほど多かったということを悟るようになります。神様は私たちのために悪を善に、失敗を栄光に変えてすばらしいことをなさるために、今も私たちの中で聖霊として働いていらっしゃるのです。
神様の恵みと祝福は自然に臨むのではありません。受け入れる人間の方から信仰の決断と具体的な行動を起こさなければなりません。癒しの祝福もその祝福を受け入れる心の器が用意された時にはじめて私たちのものになるのです。それでは私たちはどのような器を用意しなければならないでしょうか?
1.健康を熱望しよう
癒しも他の祝福と同じように望んでいる人に近づいてきます。神様は望み、熱望しない人には神様の特別な計画がない限り、働けないためです。
2.罪の赦しを得よう
人間は罪を犯し、その罪責感によって不安と恐怖に追われ、神様の御顔を避けるようになると、幸福と喜びを得ることができません。それゆえ、私たちが病気になった時には、過去のすべての言動と心を振り返り、神様を悲しめた罪や隣人に害を与えたことなどを一つ一つ悔い改め、まず罪が赦されなければなりません。
3.心を守ろう
私たちがイエス様を救い主として信じ、口で告白し、水と聖霊によって生まれ変わったことは、私たちの存在そのものの変化です。それにもかかわらず、サタンはほえたける獅子のように機会こそあれば、私たちを打ち倒し、また支配しようとしています。それゆえに、御言葉を通して、このようなサタンの計略と訴えから心を守る時、私たちは心身に平安と健康を守ることができるのです。
4.憎しみ、妬み、嫉妬、憤怒を解決しよう
私たちはまず憎しみの問題を解決しなければなりません。憎しみを解消できる唯一の方法は赦して祝福することです。赦しは私たちの祈りが答えられるのに重要な条件であり、癒しの根拠です。また、他人をうらやんで心の中に妬み、嫉妬、憤怒などの苦い根があると、体と心の健康を得られません。私たちが隣人と正しい関係を結べるようになった時、健康な体と心を持つようになるのです。
5.信仰の祈りをしよう
信仰の祈りは、無い物を有る物と同じように見て、願う創造的な宣言です。神様は独り子イエス様がむち打たれ、水と血を流すほどに、私たちの健康を願っておられ、あわれみ深い父でおられます。私たちがイエス・キリストの御名が持っている力を信じ、癒されるために祈る時、神様は私たちを救われ、奇跡を与えて病を癒してくださいます(使徒3:6、4:12)。
病から治療されるのは重要ですが、病気にならず、健康を維持することは、より重要なことです。健康を維持するために私たちがするべきことを聖書的な観点から見てみましょう。
1.罪を犯さない
私たちが神様のあわれみを信じ、病を背負ったイエス様を信じる時、私たちは癒しの奇跡を体験し、癒されることができます。私たちの心の器に聖霊を受け入れて、私たちの体を神様がおられる聖なる宮にする時、悪魔は2度と入れないのです。
2.ストレスを解消する
a)私たちは人生の原理を知らなければなりません。「私はどこから来て、何のために生き、どこに行くのか」について確実な答えを得ると、私たちは世の中のものに対して自由になり、ストレスから解放されます。
b)疲れた人、重荷を背負っている人はすべてを主にゆだねなければなりません。イエス様はわたしたちを憂慮や心配から休ませてくださると約束なさいました(マタイ11:28)。
c)6日間は働き、7日目は休むという神様の創造の原理にしたがって生きる時、私たちは健康な心身を維持することができます。
d)内的な力を養わなければなりません。私たちが家族、友達、隣人と熱い愛で結ばれた関係を維持すれば、内的な力を得ることができます。また、私たちが聖霊に頼る時、私たちの弱い心が強くなり、新しい力を受けるのです。
3.聖霊に満たされた人生を生きる
肉体的な健康を維持する最大の秘訣は、心の平安と喜びを維持することです。特に現代人のすべての病の70%以上は心の不安や情緒的な疾患から始まると医者は診断しています。聖霊は慰めと平安の霊です。それゆえに、私たちが心の平安と喜びを維持し、肉体の健康を維持する秘訣は、聖霊をいつも認め、歓迎し、受け入れ、委ねることなのです。